時として、モノゴトに意味を見出し過ぎること、に疲れる。仕事だけでなく、ヒトと会ったり、音楽を聴いたり、本を読んだり、体を動かし、時間を使うことの「意味」を考えている自分に気がつくことがある。そんな僅かな疲れが積み重なって、意味もなく酒を呑むこと、に意義を見出したりしている。やれやれ。
だから、こんな本に出会うと「無意味に」嬉しくなる。ただ、ボクの知らない何処かの日差しや、風や、埃が舞い上がる舗装路からの照り返し、そして幾ばくかの食べ物の匂い、そんなものが行間から流れ出る。ただ、それだけの本だ。だから、出かける時の荷物が少し重くなることと引き替えに、気持が少し軽くなるような、そんな本との時間を得ることができる。ただ本であることの価値、のようなものを得た。
たぶん、アフリカやラテン・アメリカの旅行記を読む愉悦って、そんなことにあるんじゃないかな。教養とか教訓なんか匂わさないしね。亡き山口昌男の随想にもそんな味わいがあったし、そうマチョイネこと西江雅之の本もそうだったな、と微かな既視感を頼りに遠い昔に読んだ本を思い出した。
この1年で20年くらい放置していたレコード棚に魂が入ったので、この6年くらい放置していた本棚を整理して、また紀行文でも読んでみようかな、って思った。