K’s Jazz Days

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ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

村上春樹:走ることについて 語るときに 僕の語ること(2007、文藝春秋)を再び読む


 本好きだと思っていたボクの読書量が劇的に低下しはじめたのは、いつ頃からだろうか。仕事に心身ともに異常な集中を強いられていた頃からか、あるいは老眼が顕在化した頃からだろうか。自分という人間の質が変わってしまった、という感覚が振り返る過去から流れてくる。

 昨年だったか、丁寧に老眼を補正するレンズを作ってもらい、新しい土地での新しい仕事にも慣れた、そんな時分から少しずつ本を手に取る時間が伸びている。文庫本より単行本を手にするようにしていることも、あるのだけど。

 そして海外へ仕事で出かける折は、とても良い機会で、読み切れないほどの本を抱えて、空港へ向かう。そして1〜2冊の本を読み終えて、それなりの満足感を得る。海外に滞在していること、よりも楽しいかもしれない。

 今回も単行本を2冊読み終えたのだけど、そのうちの1冊。珍しく2回目の読了。

 出版された頃、6年前の今頃、と今との違いを味わうような、内側を向いた時間になった。書き手の意図、と全く関係の無い読者の独り旅のような読み方。

 2007年の秋。まだ走っていなかった。走り始める半年ちょっと前。前の仕事の財政的な破綻が取り繕うことができなくなった時期。完全に仕事を「終わらせること」に何の意味があるのだろうか、そんなことを考えていた。そんな日々と、本を読んだ記憶が全く繋がっていなくて、奥付をみて、あああの頃か、と今頃気がついた。

 2013年の秋。初めてフル・マラソンを走った後。走り始めて5年半弱。前の仕事の「尻尾」のようなものが、やっと切れたような気がする。それどころか記憶の表層からは消えようとしている。積極的に新しい仕事をしているが、ときとして、職業人生の終盤にかかって、仕事を新しく「積み上げること」に何の意味があるのか、と稀には思うこともある。そんな忙しい日々。

 定点観測のような同じ本の記述を眺め、その印象が殆ど変わらないことに驚いた。走ったことで変わったことは、フル・マラソンの記述がより身近になったことと、彼とボクのランナーとしてのポジションの違い、が具体的に分かったこと。

 でもそんなことは、この本から受ける印象の5%にも満たない、ということだ。つまり、極めて個人的な人間(だと思っている人間)が生きていくときに考えること、が投影された「走ること」。それは殆ど、そんな人間が生きること・働くことと同意義であること。ただそれだけの単純なことを通奏低音のように繰り返しているだけなのだ。

 それはきっと「生きること」「生きることへの感情」はそんなに単純じゃないので、長い距離を「走ること」のような「素敵な空っぽ」な感情になればいいなあ、という憧憬を言い聞かせているような趣、だと思えて仕方がない。

 文章を書く力(skill)が高くなって、そんな素振りは表面的には見えないのだけど、そんな感じが与える親近感(という大きな誤解)が彼の文章や小説の魅力だと思って、今でも飽きずに(いや飽きても)読み続けているような気がする。

 50代に入った彼のタイム(4時間前後)に少しだけ嬉しくなったのは偏狭な心理なのかなあ、とも思ったのだけど。これは走るようになったことで、得られた余録。にやっ、としてしまった。