昨日、ディスク・ユニオンのお茶の水駅前店で、古書を購入。なんとなく気になっていた本だけど、手を出していなかった。ボクがジャズを熱心に聴きていた1979年から数年間、何故か浅川マキと阿部薫のレコードに手が出なかった。なんとなく、イカガワシイ感じがしたのである。それは、音楽の質云々でなく、喧伝のされ方が、エキセントリックでアンダーグランドな感じ、つまり音楽以上に音楽に貼り付けられたコンテキストが妙に気になったから。
浅川マキが亡くなる少し前に、やはり日本のジャズを追いかけていくと浅川マキは避けられないと思い、レコードを入手したのだけど、そのような先入観は間違っていたことを思い知った。最近聴きはじめた阿部薫も同じ。彼らが放つ「日本的なニオイ」に好き嫌い、はあると思うのだけど。
浅川マキの追悼本(?、生前の発行かも)を読むと、全般的に「エキセントリックでアンダーグランドな感じ」に溢れていて、生前の彼女を知る金沢の人たちの印象「良く笑う、明るい、可愛い人」とは随分と違うように思う。
阿部薫に関しても、鈴木いずみ本から見えてくるのは、さらに過剰なエキセントリックさ、であり、あらかじめ答えが分かった問題用紙をみるような味気なさ、がある。
この本は阿部薫や鈴木いずみと同じ時間を過ごし、その生死につきあった著者の独白のような本。しかし絵に描いたような「印象操作」のようなものはなく、人と人の付き合いが極めて率直に書かれていて、政治的な反体制のコンテキストに載せ込むような安易な箇所は全くない。ただただ1970年代中盤から10年ほどの、フリー・ジャズ奏者達との生き様が、淡々と述べられているのだ。だから面白い。
ボクは1983年から神奈川に住んでいたのだけど、出かけてもエアジンかピットインくらい。著者が経営していた騒(がや)は知らなかった。案外近くにいて、交叉しなかった人たちの話、なのである。
昨夜はディスクユニオンの後、会合から懇親会に出席し、東京で宿泊。いつもは独りで気易いバーへ行くのだけど、昨夜は呑みにもいかず読み続けた。つい夢中で気がつくと2時前。鈴木いずみや、阿部薫の話だけが書かれている訳ではなくて、1970年代後半の「ちょっと生きにくい人達」が主役。その感じがなんとも懐かしく、そんな時代に生きていた、ことも少し思いだした。
いつの間にか寝ていたが、意識はかなり覚醒していたように思う。確かに本と連続した世界のなかに、ボクが居ることをはっきり自覚していた。ガランとした、部屋の中でサックス奏者が吹いているリアルな姿を見ていた。ああ彼かもしれない、と思った。他に誰も居ない。何時頃だろうか、ボクの横を人がとおり、すっと部屋を出て行き廊下を歩いて行く音で我に返った。あの気配は何だったのか、という不思議な感覚が残った。夜明け前、4時過ぎだった。
この本の結末には衝撃を受けた。そう、確かにあの時代の空気のようなものを忠実に書き記して、彼女は果てたのである。中上健次の「アイラー、破壊、云々」のような安易なジャズの見方ではなく、奏者が響かせる音であると、著者は看破している。ボクも還暦が近づいて、その感覚に共振している。だから、霊感もないくせに、彼らとともに時間を過ごしたような気になったのかもしれない。