今日、twitterのタイム・ラインをみていたら面白い疑問、が流れた。
岩浪洋三のライナーノーツ、アーサー・ブライスとリッチー・コールが「次代を担う新鋭」的に紹介されている。他でも70〜80年代の岩浪洋三のライナーではやたらとリッチー・コールが推されている印象。
— zu-ja (@rifuzuja) 2016年9月1日
リッチー・コールってあまり聴いたことがなくて、「陽気なバップおじさん」くらいの印象しかないのだけれど、岩浪洋三はどこに新しさを見出してたんだろう。
— zu-ja (@rifuzuja) 2016年9月1日
若い世代の方から、多分、生まれる前に人気が盛り上がったリッチー・コールの名前が出たことに驚くとともに、丁度、大学に入った直後のリッチー・コール人気が懐かしくなった。
リッチー・コールの名前が日本で広く認知されたのは、マンハッタン・トランスファーのExtensionsで2曲ばかりソロをとったこと、ではなかろうか。このアルバムはWRのバードランドをヴォーカリーズでアレンジしたことが面白い一枚。これでマンハッタン・トランスファーの人気がブレークしたと思う。そのなかのShaker Songでのリッチー・コールのソロは今聴いてもいいなあ、と思う。
このアルバムが出た時点(1979年秋)ではMuseでのリッチー・コールのリーダ作は日本盤が出ていなかったと思う。
翌1980年にリッチー・コールのハリウッド・マッドネスが日米同時発売。マンハッタン・トランスファーと共演という話題作だった。同時にヴォーカリーズの元祖の一人で、発売前に細君に射殺されたエディ・ジェファーソンも入っていて、なかなか聴かせるアルバムだった。まあ軽いヒラヒラした感じが味で、それはそれでアリかなあ、という感じ。
これで日本での人気が沸騰。おりしも、SJ誌も「Jazz Time Now」というキャンペーンで、フュージョンに席巻されたシーンでの「主流派ジャズ復権」を盛り上げていた記憶がある。そんなこともあって、Museの過去作は日本盤が出るわ、フィル・ウッズとのアルト・バトルの新譜は出るわ、の盛り上がり。
初来日は翌1981年。冬だったんじゃないかなあ。大阪御堂会館(1000人近く入った記憶があるが)が満席。その来日の折に、タモリのオールナイトニッポンに出演。なかなか二人は盛り上がっていた(マイルスの前で小さくなっていたタモリだけど、リッチー・コールとは相性が良かった)。そのときの放送を録音したのだけど、サード・ハード・オーケストラに居た同級生の松浦君に貸して、(一緒に貸したレコードとともに)それっきり。
というのが当時の思い出。その後が思い出せないくらい、印象が薄い彼なのだけど、反動が大きかった、ということだろう。
てなことを、若い彼に簡単に説明すると、
@kanazawa_jazz ありがとうございます。そういう人とアーサー・ブライスが並べられている、というのが後追いの私には新鮮で。まあ岩波洋三氏のライナーは色々とテキトーだなと思うことも多いのですが。
— zu-ja (@rifuzuja) 2016年9月1日
という反応。ボク自身、アーサー・ブライスはIndia NavigationのフリーっぽいアルバムやColumbiaでのブラッド・ウルマーとの変態っぽいアルバムが印象的なのだけど、同時期(1979年)、In traditionというSJ誌の4ビート復権の眼鏡にかなう一枚が出た。大きな記事が出た記憶がある。今となっては、CD復刻すらされていない。
それが若いzu-ja氏への回答かなあ、と思っている。滑稽なくらい「主流派ジャズの消失」が懸念されていた時代だった、のである。
まあ単なる還暦前オヤジの思い出話、である。このときの余韻は、中古レコード屋の餌箱のなかにある。大量のリッチー・コールのレコードが500円以下で売られている。でもね、ハリウッド・マッドネスは500円だったら楽しめるよ。