Carlos Aguirre: Violeta (2008)
昨日の金澤、なんか気が抜けた炭酸水のような大気が覆う、を走った。いつものように野田山の方角に向かってから、山側環状道路を医王山の方角を向いて。最後は犀川を越えて、河岸段丘が折り重なる様を足下に感じながら小立野の上まで。辰巳用水沿いの歩道の積雪も溶けて、眼下に広がる街並みの屋根にも雪はみえない。まだまだ冷たい風が吹き抜けるのだけど、この緩んだ感じは何だろうな。春の感覚は、決して大気の絶対温度で決まるわけでなく、大気が内包する微係数のあり方、正・零・負、で決まるのだろうか。零から正に変化する今頃の気だるさ、物憂い感じは何だろうな、と思う。小立野の丘のうえから亀坂を下りながら、そんなことをいつも考えている。
そんな日々を過ごしているのだけど、案外よく聴いているのは南米の奏者たち。それもアルゼンチンの。カルロス・アギューレの何枚かのアルバムはボクの気に入りになっている。いわゆるフォルクローレのある種のにおい、ときとして臭う、は好きではない。時として、ある種の普遍性を獲得し、まったく異次元の音空間を突きつけるときがある。このアギューレのアルバムは、そんな音楽。全くアルゼンチンという地域に偏在した臭いはなくて、ある種の音楽がまとう匂い、香りが立ちこめている。アコウスティックな音、ギター、ベース、そして水の流れ、が奏でる音が、緩みはじめた大気のように、気色のよい気だるさを運びはじめる。そんな気分で過ごす午後は悪くない。春を迎えるためのプロトコルのような、音楽。
このVioletをはじめとするCDのジャケットは手作り。和紙のような紙を切り抜いて、眼をつくっている。だから、あまり流通していないみたい。ボクは大洋レコードで購入。ときどき入荷するみたい。