K’s Jazz Days

K’s Jazz Days

ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

青いパパイヤの香り(ヴェトナム、1993) 機内での驚くべき出会い


 ニューヨークから成田に向かう期中で、この映画をはじめて見た。小さく貧相な画面で、しかも静音機能のないヘッドフォンで聴く、騒音の中での映画なのだけど、熱帯の色彩感を孕んだ画の素晴らしさ、熱帯の鳥や虫の喧噪が紡ぐ静寂な空間のなかで、2時間弱を過ごした。そして繰り返し見た。いや、まだ見たりない。劇場でも見たいし、自宅でも見たい。ボクのなかでは、鈴木清順のツゴイネルワイゼン以来の、打たれるような時間(沢山の映画を見ている訳ではないので、見ていない映画のなかに、まだあるのだろうが)。

 この映画もツゴイネルワイゼンと同じく、粗筋や主張なんかに意味はない。ただ美しい画像を連鎖させることだけに主眼がある。ツゴイネルワイゼンの場合、意表を突くような場面の設定が、画像を錦絵のような歌舞いたものにする効果を与えていたが、この映画はそれすらもない。場面は2つの邸宅内のみ。淡々ひ日々が続く。台詞すら最小限に抑えられ、役者の感情すら最小限にしか示されない。ただ画に画を重ねながら、音に音を重ねながら、ミニマルのように、結果としてさざ波のような心象を観る側に残している。撮り手の画の美しさを極大化させようとする意図に痺れてしまった。

 熱を帯びない熱帯の光景、のようなものが、言い換えると、冷凍保存された熱帯を覗き見るような、騙し絵のような快感が、絶えず襲ってくる。絶えず流れる鳥や虫の鳴き声が、大気の穏やかな流れや、沈殿していくような強い暑気を知らせる。遠くから観察するボク達。そのとき、バンコクのホテルの屋上で叫んでいたり、台北の路地裏で囁いていたりする鳥たちや、サイゴンの郊外で聴いた虫たちのことを、確かに思い浮かべていた。

 被写体深度の浅い画像に騙されながら、バオダイ時代の余韻を強く残す商家を覗き見するような悦楽。

 熱帯の暑気を封じ込めないように流れる第2の場面(コロニアル風の邸宅)で男が弾くドビュッシーピアノ曲や、自作の現代曲。官能的な夜の空気の濃さ、だけが伝わってくる。

 モノトーンに近い抑制された画面のなか、昆虫、両棲類、生命力溢れる植物など原色の生き物たちや、アオザイの赫などが浮かび上がっている。僅か数十メートル四方の商家が舞台なのだけど、僅か数ミリ四方の蟻から描き出す分解能は高く、奥行きの深さに全く飽きさせない。

 まさか、機内でそのような映画に出会うとは思わなかった。