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ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

工藤隆: 古事記誕生 (中公新書, 2012) 今につながる古代王権の在り様

 この夏読んだ本。

 この本全体としては、古事記の「点としての誕生(712年に成立したこと)」、「線としての誕生(縄文・弥生の無文字時代の遺風)」に分けて論じている。「点としての誕生」については、偽書説(成立年代の見直し含め)に対する反証について述べられており、これは面白い。

 「線としての誕生」は文献がない時代の様々な遺風を、いわいる照葉樹文化圏の揚子江以南の少数民族誌から読み取る作業を行っている。それなりの説得力はある。しかし、煩雑の管もあり、大半は読み飛ばした。

古事記誕生 (中公新書)

古事記誕生 (中公新書)

 

 一番面白かったのは時代のなかでの日本書紀との対応のなかでの古事記の位置づけ。

 この時代、文武天皇の時代は「日本」という国家の成立時期である。つまり中国から倭と呼ばれた「ヤマト王権」が、自らの国号を「日本」とし、大王(オオキミ)を「天皇」と命名した時期である。その意味において、国家としての日本が定義された瞬間である(古代の大王は天皇の祖先であり、日本以前の国家を治めていたのだろうが、それは倭であっても国家としての日本、ではない)。

 著者は、その時代に2つのベクトルがあったという。

(1)律令国家として政治的リアリズム:藤原氏による政治の掌握

(2)天皇の神格化:政治的な実権からの隔離

 日本書紀は漢文で記載された公式の史書であるため、ヤマト朝廷から日本成立のリアルな時代に関する記述が厚い。それは政治的リアリズムの書であるから。古事記は和漢混淆文体であり、神代からリアルな時代以前の記述が厚い。これは新たな律令政治の立ち上げの中、政治的リアリズムに向かう時代の中で逆行する方向、シャーマニズム的、呪術的な世界への指向を示したものである。つまり時代の変化点で、二重の精神構造があった、と主張している。

 これは明治維新のとき、西洋的な国家制度の構築とともに、天皇神権政治を持ち込んだ「二重構造」と同じ指向、だという。その点については興味深い指摘であった。

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 ここからは雑感。

 日本国家成立とともに、オオキミは天皇となって、神祇官とともに祭祀長としての性格を強め、政治の実権からは遠のく。これが「平時」の日本の伝統的な在りよう。鎌倉幕府崩壊、鎖国崩壊などの非常時に、政治の表舞台に現れるが、それは政治の側での正統性の確立という必要性のなかでの出来事であろう。ヤマト王権から国家としての日本を成立させたときと同じ構図。

 だから現憲法体制での「象徴」は、まさに祭祀長としての在り様を「法制的に」宗教色を抜いた形で見事に再生したのではないか。先帝の時代、政治的存在故に存亡の危機に瀕した皇室が古の伝統に還る、という新憲法の違う側面を感じてならない。この体制のなかで、神権化ということに頼らず、国民とともに安寧を祈る、という形を創られた現帝の在り方は、この21世紀に、古の時代のように、祈るというシャマーニズムから現れた王権の原点を蘇らせたように感じる。祈り、故に多くの人々の心に寄り添うものになったのではないか。支持・不支持は様々な議論があると思うが、そのようなお姿を、我々は眼前で見ているのである。

 例の自民党改憲案での国家元首という再定義は、宗教的存在とのconflictが大きく、再び存続の危機を将来するのではないか、と思う。日本の伝統、という視点からも大きく退行するものと感じる。

 生前譲位の件もあり、本書の美味しいところは考えさせるものがあった。

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[ついでに]生前譲位の報道の折に考えたこと:

 即位時と現在の今上天皇の重みの違いは何だろう。祭祀に尽くされ、国家、国民の安寧を祈るという、古代へ回帰するが如くの在りよう、ではなかろうか。新憲法下、非政治化し祭祀王としての存在を鮮やかに示された。旧憲法下で政治的存在に祭り上げられ、皇室存亡の危機まで至った事態への解ではなかろうか。
 祭祀の重さが生前退位の背景であろうし、そこに一切の政治的な背景を織り込んで欲しくない、と思う。大半の王家と異なるのは「古代の祭祀王」が現代に存在意義を示している、という点。非合理的な存在ではあるが、政治から隔絶され、我々の安寧を祈ってくださる方が居るのは素晴らしいではないか。
 だから自民党改憲案の「元首」には違和感。旧憲法への回帰、は決して良い方向ではない。