K’s Jazz Days

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ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

菊地雅章: All night,all right,off white boogie band (1989) 断片化したファンクのカケラの集積

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 何回も書いたが、菊地雅章のリアルタイム体験はSustoの米Columbiaからの発売で、あの「甘酸っぱい匂い」がする輸入盤、菊地雅章Sustoが店頭に山積みされた。それが最初で最後の、「景気の良い場面」ではなかろうか。

 再確認と発展(1970)からの「電化ミニマル」で「内省的な」路線が一つのピークを迎えたのが、結局のところSustoではなかったか。それがマイルスで云う「アガルタ」や「パンゲア」相当であり、あのような緻密で激しいグループ表現の行き先の難しさ、がともに長い休止期間を生んでいるように思えてならない。本当のところは、分からないし、そうでもないかもしれないが。

 ボクは当時、Susto, One way travellerの続編を望んだが、おいそれとは出てこないし、その後の菊地雅章の活動もよくわからなかった。

 それから数年で菊地雅章のことは気持ちから消えており、今更ながら、追いかけている状況。

 そのスストの続編的な唯一つのアルバムが、このAAOBB。1989年の水戸でのライヴ。Sustoから10年近く経っている。Sustoのような稠密に練り込まれた印象はなく、極めて疎な演奏。ベースやドラムでグルーヴするような場面もあるが、多くは、菊地の内省的なオルガン、点景のような音、に僅かなリフを載せていくような。身体的な躍動をともなうファンクから、随分と遠くに来ている。あまりに断片化したファンクのカケラの集積、なのだ。そう、アガルタ/パンゲアで、interludeとしてオルガンを弾くマイルスがいる。そのときの疎な感じ、そのものが延々続く。それはinterludeではなく、曲のコアそのものなのだ。

 勿論、感嘆するような音、も散在するのだけど、聴き手として緊張感や愉悦の持続が難しいのも事実。このアルバムの印象が、彼方へのフェードアウトであるのと同じく、菊地の電化音楽も彼方へフェードアウトしたように思える。そして、アコウスティック・ピアノに戻っていくのだ。

 

参考記事:

 

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菊地雅章: All night,all right,off white boogie band (1989)
(Disc 1)
01. Getting ready
02. A road to south Dakota.
03. Marketplace
(Disc 2)
01. Old southern boogaloo
02. Color of belladonna
03. Satan of Chantan/ New native
菊地雅章(key), 峰厚介(sax), Kelvyn Bell(g), Tomas Doncker(g), William 'Spaceman' Patterson(g)Konrad Adderley(b), Victor Jones(ds), Aiyb Dieng(per)