昨日は名古屋から豊田市へまわり、豊田駅前で宿泊。良い機会なので、岡崎市の図書館に設けられている常設の内田修ジャズコレクション展示室を訪問した。
ボクが内田修の名前を知ったのは、18の頃。SJ誌を熱心に読んでいると、年に何回も名前が出てくる。岡崎の医師で、日本のジャズ奏者のパトロン的存在であり、また熱心に演奏の記録を行っている方。1960年代の銀巴里セッションの収録者であり、また主宰されているジャズクラブでの企画から、宮沢昭の復帰作「マイ・ピッコロ」が飛び出している。日本のジャズファンであるボクも、その恩恵を受けている訳だ、
図書館の大きさに驚いた。このなかに展示室がある。
入り口
1960年代の渡辺貞夫や宮沢昭のレコードに名を残す原田政長氏に貸与したベース。その後、日本に滞在中のピーコックに貸与し、銀界の収録にも使われた、とか。最後は井野さんが使ったそうだ。
富樫雅彦のドラムセット。これを両手で。凄い。「事故」で下肢の自由を失ったとき、内田邸で療養していた。
宮沢昭のサックス
銀巴里の収録テープ。内田修コレクションの宝は、演奏の記録そのもの。公式に発売されたのはTBMでの銀巴里のみ。高柳昌行が素晴らしい。そのようなセッションの記録が目録化されている。このなかから、5つのCDが岡崎市で製作、販売されている。追って、紹介する。
記録に使われたソニーのオープンリール用テープレコーダ。岡崎という街は、ソニーの資本を提供した盛田酒造(盛田昭夫の実家)の街。永らく、盛田家が大株主であった。その後、盛田昭夫の長男が出資した新井リゾートなどの失敗で、盛田家のソニー株はほぼ失われているという。レコーダーをみながら、岡崎とソニーの縁、を思い出していた。
ソニー同様、日本のジャズも1960年代に蓄えた力で、1970年代に急速に花開く。ボクはその1970年代以降の日本のジャズを聴いている訳だけど、それが1960年代に揺籃されたものであることを展示から知った。
僅かな時間であったが、有意義な滞在であった。