K’s Jazz Days

K’s Jazz Days

ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

Modern jazz ageは終焉したが、Meta-Modern jazz ageも終焉したのか

 「21世紀のジャズ談義」のなかで気がついたことがある。即興に対する考え方の劇的な変化、じゃなかろうか。村井さんの近著のなかや、「Jazz The New Chapter」のなかでの中山さんの話もそうだし、webに上がっていたインタビュー記事なんかもそう。なんかJazz=Modern jazzのような空気のような感覚があって、その中心に鎮座しているのが即興への偏愛、それは奏者も聴き手も疑う事無く愛していたもの、じゃないだろうか。

 勿論、JazzがpopsであったSwing ageがあったことは「知識」としては認知している。しかし、時代体験として受容した世代はほぼ姿を消している。だから知識でしかないのだ。だから、ボクの2世代前くらいからは、Modern Jazz=即興=Jazz。

 Modern Jazzの黄金時代はJohn Coltraneの死を持って幕を閉じ、それ以降、Meta-Modern jazz ageとも云える模索の時代。即興という概念を中核に様々なリズムや音の在り方を追求されてきたが、まさにMeta-Modern jazz ageの柱のひとつであったMiles Davisの死をもって、Movementとしての求心性はなく、多様化を通り過ぎ分散化し、薄まっているような疑念のなかにある。

 即興、Improvisation=Jazzと定義するならば、Free Jazzの大半は「テーマの提示から即興」という、Modern Jazzの王道を踏襲しているし、ICP,FMPやCompanyの面々によるImprovised musicは、もはやJazzとも、いや音楽とすら云い難いものまで包含するが、「即興への偏愛」という側面から多くのジャズ聴者からも支持されてきたのではないだろうか。

 ボクの世代(50過ぎ)にとって、Modern jazz ageは神話の時代であって皮膚感覚で捉えることはできない。だから、ボクがドキドキしながら同時代的に受け止めたFree JazzやFusionなど「多様化したJazz」はMeta-Modern jazz ageの時代の音楽で、きっと次の時代の音楽への過渡期的な受け止め方を、「結果的」にしてきたように思えてならない。

 だから、Miles DavisのAgartha(1975)路線が袋小路であると思い知った復活劇(1981)、Herbie HancockのSound System(1983)路線からの長い中断と旋回、Jaco PastoriousのWord of Mouth(1981)後の才能枯渇と死、菊地雅章のSusto(1980)の先も見えない。そして Gil Evansの死。Wayne ShorterもJoy Rider(1988)から切れてしまった。Pat MethenyMicheal Breckerの音楽もよかったが、1990年代で賞味期限が見えてしまった感じが拭えない。そんな苛立ちのなかにModern JazzあるいはMeta-Modern Jazzファンのボクたちは居続けた。苛立が諦めになってきた感がるのだけど。それが20世紀お仕舞頃の村井本から最近の村井本への変化でもあり、全くもってその感覚は共有できるものなのだ。

 即興がrespectされる限り、その周辺にminimalがあったり、improvised musicがあったり、あるいは軽いFusionがあったりしても、鷹揚に周辺音楽だけど面白いよね、って立ち位置で良かった訳だ。

 そう、Modern jazz ageは終焉したが、Meta-Modern jazz ageも終焉したのか、という疑念が芽生えているのだ。

 だから、

「“即興に逃げない”っていうのは、大事にしたことかもしれませんね。ミニマルに繰り返すような曲をやりながら、ジャズ・ミュージシャンの強迫観念で“前と違うことをしなくちゃいけないんじゃないか”みたいなことはあまり考えたくない。気持ちよかったら全く同じソロを弾いてもいいと思う」 (インタビュー記事

とか、

ソロをもう少しやったらグラミー賞は云々のグラスパの話(「Jazz The New Chapter」のインタビュー)

とかにnegativeに反応してしまう。

 ボクは「Modern Jazz」が好きで、それが21世紀のなかで21世紀らしい音を獲得して欲しい、と思うのだけど、どうなのだろうか。21世紀もdecadeの累積を済ませ、Jazzは健在だけど、Modern JazzもMeta-modern Jazzも終焉した、という状況なのか気になって仕方がない、この頃なのだ。