K’s Jazz Days

K’s Jazz Days

ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

Meta-Modern jazz ageのなかでジャズを聴く、ということ:柳樂光隆「Jazz The New Chapter」の感想に代えて


 昨日の続き、である。

 ボクの結論、のようなものは、未だMeta-Modern jazz ageのなかにあるのだけど、それが音楽の語法としてのジャズが広く拡散し、Classical musicと同じような普遍性を獲得した、ということの意義を言葉にできていない、ということではなかろうか。だから、求心的なmovementがあろう筈はなく、広い音楽のfieldのなかでその見取り(俯瞰図)が未だ得られていない、状態ではなかろうか。世界地図がなき時代の世界観はどのようなものだったのだろうか。欧州人からみた世界はジブラルタルの向こうが滝のように海が流れ落ちていたのではなかろうか。今のジャズを取り巻く状況はそんな感じ。

 ボクが「Jazz The New Chapter」に頷ける点と、頷けない点があるのは、そのような観点から。ジャズ地図が不完全だ、との著者の主張は「聴き手」としては頷ける部分はある。従来のジャズの領域からの拡張は綿々と続いていて、パカーのラテンなんて陳腐な例をあげるまでもなく、ブラジル音楽とジャズの大きなoverlapは音の沃野である。またECMが延々と出し続けているような、Classical musicとの穏やかなfusionもまた然り。そのような他分野とのoverlappingの一つがHip-hopであり、そのに眼を向けるべきだ、という主張は理にかなっている、と思う。

 しかしながら、その動き、グラスパらの動きが21世紀のジャズのmain streamだろうか。ジャズという世界の一つの地域、じゃないの、ということが、あの本の違和感に繋がる。過去のジャズ評論(油井正一らの)での正調ジャズ史のcontextを、正しく踏襲しているような居心地の悪さがある。何回も繰り返されたMeta-Modern jazz ageの不毛な議論だから。

 勿論、このような混沌としたシーンを「聴き手の快楽」で縦断したMOONKS本に対する違和感(ジャズ世界をある程度の密度で投影しているのだろうか)を解消している部分はある。Black musicとしてのジャズを、それなりの密度で正しく紹介している(のだろうな)、というジャズ・ディスクガイドとしての質は良い、と思う。

 ただ今のジャズの世界を俯瞰的に「言葉」や「見取り」で表して欲しい、という「聴き手」から「評論家というプロ」への願いについては、残念ながら不十分だと思う。21世紀のジャズを語る、という視点を云うならば、である。吉祥寺のジャズ酒場のオヤジの本じゃないのだから。ボクは村井さんの「JAZZ100の扉」に書き手としての誠実さを感じるのは、そのようなことへの希求と、それが不完全なことに対する認識だと思う。だから、「グラスパで決まりだよ」のような論には組すことはできない。

 なぜなら、ジャズを聴きはじめた1970年代のお仕舞いに、ジャズ喫茶でcontemporaryな電化ジャズをリクエストしたときの、古きモダン・ジャズファンの反応と近いものを感じるから。まさか、そんな偏狭な空気を年若い著者から感じると思わなかった。ディスクガイドとしての本の仕上がりは、とても良いので、そのあたりが残念に感じてならない。同世代の聴き手の多くが感じている部分だと、かなり確信に近いものがある。この手の論議に必要な、ある種の普遍性が足りない、と感じた。勿論、聴き手の「ボクの好きなジャズ本」だとしたら問題ないのだけど、著者の狙いは違うよね。

 書いていても、まとまりがないねえ。まとまる筈がないことを書いているのだけどね。