K’s Jazz Days

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ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

阿部薫: Mort À Crédit-なしくずしの死 (1976) 今、音だけを聴く

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 阿部薫に関する記述やyoutubeにあったTV番組なんかをみると、阿部薫という題材を通じて時代を語る、あるいは自分を語るような側面が気になる。案外、音楽の話ではないのだ。1970年前後を頂点とした破壊へのヴェクターが急激に退潮した流れ、と、1976年に自死みたいな事故死を遂げた阿部に時代を、あるいは自分が生きた時代を重ねている。このアルバムの間章の文章も、中途半端な教養が生む怨嗟が行間に漂うもので、とても読む気になれない。もう、そういった時代の重さから音を解放しなきゃいけないのだろうな、と思う。もう40年前に亡くなった人、なのだ。

 ボクがジャズを聴きはじめたのは阿部が死んでから3年後。レコード屋でレコードを見かけた記憶もあるが、音にまとわりつく巨大なコンテクストのようなものが臭かったので、手を出さなかった。

 浅川マキについても、同じような印象があって、音を聴く前にそのようなコンテクストの洗礼を受けるのがイヤだったから聴かなかった。浅川マキの追悼本も阿部薫本と同じような臭いに溢れている。ある世代のアイドルなのだ。

 今、音だけを聴く。

 浅川マキ阿部薫も、彼らの音には時代と心中するような印象は全くない。だからもっと早く聴けば良かった、と思う。阿部薫の音からは怨嗟のようなものは全く感じない。音とともに続ける独り旅の情念、を強く感じる。その情念が見せる音の風景は、歌謡曲唱歌であったりジンタであったり、そんな原風景を背負って音を繰り出している。それが、ふっと気持ちを引くことがあるのだ。

  このアルバムでの阿部は高音域を多用し、呻くような音を出していることが多い。だけどさほどフリーキーな音・激情に逃げ込むことはなくて、延々と音を重ねていく。その意味で衰えを感じさせることはない。彗星パルティータ(1973年)での管全体を使った音の響きの良さ、のようなものはない。だけどそれは「味」の違いのようなもので、衰え、ではないように思えるがどうだろうか。惰性のようなものの繰り返し、には聴こえなかったのだけど。


 騒恵美子の本は、阿部薫の音について良く語っていて、阿部を通じて自分を語るような臭いは全くない。いい本だと思う。読了後に高熱を出して、しばらく寝込んだのは不思議なことだけど。いろいろ書いたが、阿部薫の音にすっと向き合うような気持ちでいながら、やはり、そこに何か、自分だけのコンテクストを用意している自分が居て、苦笑いしてしまった。

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阿部薫: Mort À Crédit-なしくずしの死 (1976, ALM)
A1. Alto Improvisation No.1
B1. Alto Improvisation No.2
B2. Alto Improvisation No.3
C1. Sopranino Improvisation No.1
C2. Alto Improvisation No.4 Part 1
D1. Alto Improvisation No.4 Part 2
D2. Sopranino Improvisation No.2
阿部薫(as)
Design: Nobukage Torii
Photograph: Masahiro Imai
Producer: 間章, Hangesha, Yukio Kojima
Record: Yukio Kojima
Subtitled "Saxophone Solo Improvisations"
B1 and C1 to D2: recorded at Iruma Shimin Kaikan, October 16, 1975.
A1, B2: recorded live at Aoyama Tower Hall, October 18, 1975 at the 「なしくずしの死」 concert.

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